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松の盆栽

松浦 貴昌のパーソナルブログ

改めて確認したい日本国憲法の成り立ちと平和主義

 日本国憲法が施行されてから70年。その節目に、NHKスペシャルで「憲法70年  "平和国家"はこうして生まれた」という特集が放送されていました。

 ちょうど良い機会と思い、いくつかの過去の番組内容と少し自分で調べたことも足して、憲法の「平和主義」がどのようにして生まれたのかをまとめたいと思います。

 ただ、少し長いので、簡単に要約したものを先に書いておきます。

 戦後すぐ、昭和天皇が「平和国家」を希求し、幣原(しではら)首相がマッカーサーに会って、天皇制の維持と「戦争の放棄」を提案。それに感動したマッカーサーは、日本政府の草案を待つも、出てきた草案は天皇を中心とする君主主義のまま・・・。こりゃ、GHQでたたき案を出したほうが早いし、連合国の「極東委員会」の管理下になる前に進めておきたいので、1週間でGHQ草案を作成。(日本人の有識者が集まった「憲法研究会」の草案も大変参考にした。)

 日本政府も急いで、GHQ草案を検討し「帝国憲法改正案」を作成。帝国憲法改正案委員小委員会で、中身を喧々がくがく議論。第25条の生存権。第26条の義務教育の中学までの延長。そして第9条の「平和」の文言などを追加。

 外務省が国際法規を尊重するよう求め、憲法第9条の冒頭の条文「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が加わり、9条の平和主義が誕生。日本国憲法が公布される。という流れです。

 

■戦後すぐに「平和国家」の建設を希求した昭和天皇

 敗戦から間もない1945年(昭和20年)9月2日、日本は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにて降伏文書に調印しました。

 そして、その2日後の9月4日、戦後最初の国会を昭和天皇が召集し、天皇は開院にあたって自ら勅語を読み上げます。

「平和国家を確立して、人類の文化に寄与せんことをこいねがう」

 この時に新たな日本の建設に向けて初めて「平和国家」が掲げられたのです。

 この勅語はできあがるまで極秘の草案として、何度も修正が繰り返され、第4案までになりました。ここで、「平和的新日本を建設」と書き加えた人物が、戦後最初の首相となった皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)首相です。

 東久邇宮首相は、この勅語が示された同じ国会で以下のように演説しています。

「潔く自ら誓約せる、ポツダム宣言を誠実に履行し、誓って信義を世界に示さん」

 このように、日本がポツダム宣言に従って、非軍事化、民主化を進める事を強調しようとしたのです。

 その後の9月15日、文部省は「平和国家の建設」を柱とする「新日本建設の教育方針」を発表し、教育現場の大きな方針となりました。

 9月25日、従軍記者だったフランク・クルックホーンが、外国人では戦後初めて天皇と会見します。その事前質問に対する昭和天皇の英文の回答文書が宮内庁に残されていました。

「恒久平和は銃剣を突きつけて確立することはできない。平和の問題を解決するのは、自由な諸国民の非武装による和解である」

 そして、その会見の2日後の9月27日、昭和天皇はマッカーサーを訪ね、「平和の基礎の上に新日本を建設する」事を伝えました。そこで天皇が占領政策に協力する事を確認したマッカーサーは、日本政府に憲法改正を促していく事になります。

 また、このとき天皇は「全ての責任は私にある」といい、その言葉に感動したマッカーサーは、密かに天皇の擁護を決意したといわれています。

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■「戦争の放棄」を提案したのは、幣原首相

 10月9日、新たな首相に幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が選ばれ、幣原は内閣に「憲法問題調査委員会」を設置します。

 翌1946年1月24日、東京裁判の開廷を前に昭和天皇の戦争責任を追及する声が国際社会にあることを受けて、幣原首相はGHQのマッカーサーを訪ねます。

 この会談で幣原は、通訳もつけず2人で3時間にわたって話し込みました。このときの会談の内容を幣原の友人が聞き、娘がそれを書き残した「羽室メモ」が残されています。以下はそのやりとりの内容です。

 幣原がマッカーサーに切り出します。
 「どうしても天皇制を維持させたいと思うが協力してくれるか」。

 マッカーサーが答えます。
 「一発の銃声もなく一滴の血も流さず進駐出来たのは、全く日本の天皇の力による事が大きい。できるだけのことは協力したい」

 幣原が提案します。
 「戦争を放棄するという様な事をハッキリと世界に声明する事。それだけが日本を信用してもらえる唯一のほこりとなる事じゃないだろうか」

 このとき、幣原が提案したのが「戦争の放棄」でした。

 マッカーサーと幣原、「大いに二人は共鳴した」と記されています。

 天皇制を守ろうとした幣原。戦争放棄の提案については次のように書き残しています。

「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるが如きことなきよう」

 一方、マッカーサーも書簡で以下のように書き残しています。

「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は幣原総理が行ったのです。私は総理の提案に驚きましたが、私も心から賛成であると言うと、総理は明らかに安堵の表情を示され私を感動させました。」

 また、マッカーサーは1月25日にワシントンに長い電報を送っています。

「天皇を戦犯として裁判にかけるべきではない。天皇は日本国民の象徴として考えるべきだ」という内容です。その裏には天皇の責任を問うオーストラリアなどの圧力がありました。

 しかし、2月1日、国体護持を推進していた松本国務大臣をはじめ政府が作成を進めていた憲法改正案が毎日新聞にスクープされ、そこには天皇を中心とする君主主義がそのまま認められていました。

 GHQは直ちに条文を分析し「天皇の行為が制限されていない」「極めて保守的」と批判し、マッカーサーはGHQが憲法の草案を作成する事を決断します。

 マッカーサーが急いだ背景には、連合国の日本占領の最高機関として2月下旬に発足しGHQを管理する事になっていた「極東委員会(連合国11カ国参加)」の存在があります。極東委員会にはソビエトやオーストラリア、中国など天皇制に厳しい意見を持つ国も加わっていました。

 2月3日、マッカーサーは新たな憲法の基本原則を自ら示します。いわゆる「マッカーサー・ノート」です。

 ここでマッカーサーは、その後の憲法9条につながる「戦争の廃止」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を打ち出します。さらに、「自己の安全を保持するための」戦争、つまり自衛戦争を否定しました。

 そして、マッカーサーはGHQ民政局に1週間で憲法草案を作成するよう命じます。

 ただ、その前からマイロ・ラウエルを中心としたGHQ民政局は、当時の進歩的な日本人の学者、評論家、ジャーナリストらで結成した「憲法研究会(1945年11月結成)」による草案の詳細な分析を前もって行っていました。

 ちなみに草案づくりの中心となったGHQ民政局員25人の中には、少女時代(5歳~15歳)に日本で育ったベアテ・シロタ・ゴードンもいて、戦前の日本の生活も踏まえられました。ベアテは翻訳、通訳としても活躍します。

 戦争放棄の条文を担当したチャールズ・ケーディスは、自衛戦争を否定した箇所を削除し、その理由を生前カメラの前で証言しています。

「どんな国であれ自衛の権利は本来的に持っていて当然のものです。自国が攻撃されたら自分で守る権利を否定するのは非現実的だと思ったのです」

「そして、"紛争解決の手段としての武力による威嚇は放棄する"という部分を加えました。」

 ケーディスによる修正で「武力による威嚇または武力の行使は、永久に放棄する」とされ、侵略戦争を明確に否定したのです。これは国連憲章から引用しています。

 2月12日、GHQ草案が完成し、多くの人権規定が盛り込まれ、天皇は「象徴(Symbol)」とされました。その後、日本政府はGHQ草案を受け入れ、条文を検討し「帝国憲法改正案」の作成が進められる事になります。(3月6日に「憲法改正草案要綱」発表)

 4月、戦後初の総選挙(女性を含む)が行われ吉田茂が首相となります。
 GHQ草案を基に「帝国憲法改正案」が作られ、条文についていよいよ衆議院で審議が始まろうとしていました。

 

■そして「国際平和」の文言が加わる

 1946年(昭和21年)7月25日、国会で帝国憲法改正案委員小委員会が始まります。
小委員会の議員は各政党から法律の専門家である14人が集まり、およそ1ヶ月にわたって憲法の条文を巡り議論を戦わせました。

 秘密会だったその記録は戦後50年間を経て速記録が公開され、日本人の手で多くの条文が追加修正された事が分かりました。第25条の生存権。第26条の義務教育の中学までの延長。そして第9条の「平和」の文言です。最低限度の生活を保障した「生存権」については、GHQ草案にも影響与えた憲法研究会の有識者でもあった森戸辰男が提案しました。

 9条の「平和」について盛り込むことを提言したのは日本社会党の鈴木義男です。そこには第一次世界大戦後のヨーロッパとアメリカの留学体験から国際協調と戦争を違法化する新しい考え方を学んだことと、軍国主義から第二次世界大戦を防げなかった反省があります。

 その鈴木の提案を、戦前軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていた芦田均委員長が受けとめ、そして外務省の資料を持ち出しました。

 外務省は、憲法の修正が及ぼす国際的な影響と、国際法規は憲法と共に尊重するよう求めていました。資料には「条約」「国際法規」に加え鉛筆で「これを誠実に」「遵守する」事が記されおり、これを受けて憲法第98条に以下の第二項が追加されます。

「第二項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」

 さらに小委員会では、芦田委員長がこの外務省の資料を9条の修正に生かそうとし、党派を超えて次々に条文の提案が出されました。

 2日後の7月29日、再開された小委員会の冒頭で芦田委員長が一つの案を示し、第9条の冒頭の条文「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が加わり、憲法9条の平和主義が誕生しました。

 それは国際連合へと歩み始めた世界の動きを見据え、日本が積極的に平和を担おうとする考え方から生まれたものでした。

 以下は現行でもある憲法9条の条文です。

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」

 

 そして、1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法公布。
 「国民主権」「基本的人権の尊重」そして「平和主義」を掲げた新たな憲法ができあがります。

 鈴木義男は新憲法を解説した本で次のように述べています。

「憲法の一大特徴は、平和主義 国際協調主義を根本としている」

 以上のように、日本国憲法ができあがるプロセスをみていくと、昭和天皇や多くの日本人のおもいが詰まったものだということがわかると思います。また、そこには先の戦争への痛烈な反省と、自国だけでなく世界全体の平和を強く願ったものであることも忘れてはならないことだと思います。

 

 ↓NHKスペシャルで「憲法70年 "平和国家"はこうして生まれた」
 http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170430

 そのほかにも「日本国憲法を生んだ密室の九日間」(朝日放送、1993年2月5日放送)、「NHKスペシャル 日本国憲法 誕生」(2007年4月29日放送)などを参照しています。

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