松の盆栽

松浦 貴昌のパーソナルブログ

平成最後の大挑戦「港区議会選挙」を振り返って。

平成が終わる前に、私にとって平成最後の大挑戦となった「港区議会選挙」を振り返っておきたいと思います。

 

改めて結果は、677票で落選となりました。(当選票数は1089票です)

これは、54人中41位で完敗です。(定数34人)

 

応援いただいた皆様には、私の力不足で申し訳ない気持ちでいっぱいです。そして、676人(自分を抜き)の私に信託し票を入れてくださった方々には感謝しかありません。改めてその一票一票の重みを感じています。一票一票を争う選挙戦で今回の選挙は文字通り「一票」が当落を分けました。1089票で当選し、1088票の方は落選となってしまいました。

 

↓平成31年4月21日執行 港区議会議員選挙開票状況速報(確定)(PDF:185KB)

https://www.city.minato.tokyo.jp/senkan/kugikai/documents/190421-kaihyou05.pdf

 

当選すれば、議員として仕事ができます。ただ、落選してしまえば、当たり前ですができません。実際に自分が経験してみるとなかなかシンプルで残酷なものだなぁと実感します。

 

なぜ選挙に出ようと思ったのか? 

私が今回の選挙に立候補すると決め、家族から了解をもらったのは昨年2018年の10月のことです。(詳しくは以下のブログ記事を参照)

 

 

その時点で4月の選挙まで半年しかありませんでしたが、思い立ったら動かずにはおれない性格と、4年後の選挙まで待つということはその分子ども達にとっても重要な4年が通りすぎてしまうと思い、出馬を決断しました。

 

もう一つには、2020年を超えるとオリパラ特需のあった東京も不動産や経済など様々な面で調整が起こり、また、2025年には団塊世代が75歳以上の後期高齢者になることで教育予算の確保も益々難しくなっていきます。そういった中で火中の栗を拾おうと思ったこともあります。そして、私のビジョンである「分断」ではなく「つながり」の街にしようと。

 

その後、昨年10月から今年の4月21日の投開票日まで約半年間走り続けました。

状況としての補足ですが、思い立ったのが選挙の半年前で、選挙に向けて前もって準備していたわけではありません。そして、地盤があるわけでも、地域活動をやっていたわけでも、大きな党から出るわけでもなく、過去に選挙を経験したわけでも、秘書の経験もありません。こう書いてみると、今ではどれほど無謀な挑戦だったのかわかります。(この辺りの選挙事情はまた別の機会に)

 

でも、街に「つながり」をつくり、笑顔を増やしたかった。子ども達の教育環境や学びを豊かにしたかった。命を守りたかった。そういったおもいでした。「港区」から出たのは、妻の実家があり結婚を機に引っ越してきて息子を二人育てている、息子にとっては地元になる街、というご縁です。

 

また、当初は他の党でぴったり理念や方向性が一致するところもないので「無所属」で考えていました。その後、ご縁で「あたらしい党」から出ることになります。

 

2018年12月末から政治活動をスタート

いろいろと勉強しながら準備を始めました。政治活動を本格的に始めたのは12月の末からです。政治活動は選挙活動と分けて考える必要があり、選挙活動はタスキに名前を出して「立候補します」「一票ください」と言えるのですが、政治活動では名前も出せず、立候補、一票、など公職選挙法により言えません。なので、タスキは「本人」とか、「区政に挑戦します」という言い回しになります。

 

そういったこともあり選挙活動が中心のように思われるかもしれませんが、政治の世界では「政治活動で当落が決まる」と言われており、重要なのは「政治活動」のほうです。イメージでいえば、政治活動が畑の種まきや育成で、選挙活動は収穫にあたるものです。種をまき、育てなければ収穫もありません。

 

政治活動をシンプルに言えば、私「松浦貴昌」を知ってもらう活動です。港区で私のことを知っている人はほとんどいないわけです。そこで存在を知ってもらい、考えやおもいを少しでも共有する、そのための活動です。また、区民の皆さんの意見や課題を聞き、政策などをブラッシュアップする機会でもあります。

 

そのために、平日は早朝から毎朝、駅に立ち、挨拶をしながら政策やおもいを書いたビラを配りました。できる時は夜も終電近くまでこの「駅頭」「駅立ち」をやりました。12月末から始めたので真冬の極寒の中のスタートです。駅に立って1時間もすると身体は芯から冷えて、手はかじかんでビラを1枚だけ取ることも難しくなります。それでも知ってもらうために、1月中旬からは平日は毎朝、雨の日も、風の日も1日も休むことなく駅に立ち続けました。

そして、日中の昼間は、街を歩き、地域の課題などを聞いて回りました。実際にやってみると地域について詳しくなりますし、一人ひとりの課題も聞けるので、これが重要な政治活動だなぁと実感しました。また、私は常に自転車で活動しましたので地理にも本当に詳しくなりました。

 

こういった活動を、仕事と育児を平行しながら進め、2月くらいからは政治活動に集中できるように仕事を調整していきました。

 

私にとってこの数ヶ月の政治活動は学びも多いですが、とても試練で辛い時間でもありました。家族に申し訳ない思いを持ちつつ、極寒の中やっていることになかなか実感が持ちづらい時間でした。駅でビラを配っていると、「邪魔だ」「うざい」なんて言われることは日常茶飯事です。中には、ビラを渡した瞬間、目の前で投げ捨てられる経験も2回ほどしました。自分のビラをコンビニのゴミ箱で見つけることもあります。夜は酔っ払いに絡まれることもあります。

 

その一方で、優しい言葉もかけてもらったり、差し入れにあったかい缶コーヒーや中学生から「からあげくん」をもらったこともあります。選挙戦でかなりお世話になった富津市の議員の方との出会いは田町の駅頭でした。また、早朝と夜の駅頭にびっくりしてお声がけいただきそこから仲良くなった方もいます。そういったプラスの部分も少なからずありますし、辛いときの心の支えにもなりました。

 

しかし、総じて言うなら、精神的な修行の側面が強かったなぁ、と思います。

 

そんな政治活動を4月13日(選挙公示前)までやりました。この間にもたくさんの仲間に極寒の中で駅頭や街頭などのお手伝いをいただき、また政治活動の手探りの中での印刷物やWEB、映像などの作成などもやっていただき、本当に感謝しかありません!そして、私と家族を支えてくれた妻にも。

 

いよいよ選挙活動、そして21日の投開票。

4月14日(日)から20日(土)までの一週間が選挙活動なります。

ようやく大っぴらに「立候補したので一票ください」と言える期間です。選挙事務所は善意で貸していただき、選挙カーも出すことにしました。選挙期間になると組織力や人とのつながりが本当に重要になります。選挙カーも運転手とウグイスが必要になりますし、交代要員がいなければ続けられません。候補者も駅や街頭でビラ配りや街頭演説をするので、そのサポートの運動員が複数名必要です。ボランティアスタッフの出入りが活発なので、事務所を守ってくれる人もいります。初日にはポスター貼りや証紙貼りという大変な作業もあります。そんなたくさんの作業、仕事を支えてくれる人が結果的には120名ほど集まり、なんとか無事選挙期間を終えることができました。(途中必死に「HELP!」を叫びましたが。。)

 

こう書くと、組織づくりやスタッフのリクルーティングもちゃんとやりながら進めたように思うかもしれませんが、実は全くできておらず、最後のこの結果は奇跡のように思うほどです。

 

選挙のためのコアチームをつくろうとしたのは11月に入ってからです。しかしその後、自分の活動でいっぱいいっぱいになってしまい、2月くらいまでまともにチームとしては動いていませんでした。このままではやばい・・・と、友人の一人が率先して組織づくりを始めてくれ、それに呼応、巻き込まれるように、仲間も増えていきました。また、この組織づくりが「ティール」「ホラクラシー」と言われる指示命令がなくとも自律的、主体的に動く組織づくりだったことも大きかったです。結果的には、私は候補者しかできない仕事に集中することができ、それ以外の膨大な仕事は他の方が自発的におこなっていってくれました。なので、私からしたら組織としてボロボロだった状態からの奇跡のような話しです。

 

詳しくはその友人が書いた記事を参照ください。

note「ティール組織で選挙を戦ってみた (結果編)」

https://note.mu/scommunity/n/n0b4744eeda6e?fbclid=IwAR0NzkUB-xYgwUiA2cHk9y8RYT_1Z0dW7qYP8Tde_qViazVEo14CIf4EuVQ

 

以上のように、昨年10月からざっとですが振り返りつつ書いていきましたが、本当に密度の濃い、学びの深い経験を仲間や家族と共に重ねてきました。苦しいときに励まし学びをくれた人、孤軍奮闘しているときに動いてくれた人、私とともに活動をしてくれた人、他の人を声がけし巻き込んでくれた人、遠隔ながらできることをやってくれた人、投票を呼びかけてくれた人、活動をしてくれた人を裏で支えてくれた人、今回関わってくれた全ての方に心からの感謝を伝えたいです。関わった人から個別に感想をもらう中でも、スタッフの一人ひとりが素敵だった、空気感がよかった、など仲間を褒めてもらうことが多いのも印象的でした。私が思い出してもスタッフみんながいつも笑顔で助け合っていましたし、私のビジョンである「つながり」の強さが体現されていたチームだったと思います。今回の選挙は自分の人生の総決算の機会であり、自分がどれほど素晴らしい方々とのご縁やつながりがあるかを実感する機会になりました。本当に、本当に、ありがとうございました!!

 

そして何より、どんな時でも私のことを応援し支えてくれ、家族のために尽力してくれた妻に心からの感謝を込めて「ありがとう」を伝えたいです。この半年は4歳と1歳の息子がいる中での本当に大変だったと思います。

 

結果としては、落選という望まないものになりました。しかし、多くの仲間たちや家族のおかげで後悔のない、現状の実力は出し切る活動ができました。

 

今後については未定ですが、今、私が持っているビジョンや在りたい姿について1mmも変更はありませんし、これからも「分断」ではなく「つながり」のビジョンや教育に向けて邁進していきたいと思っています。

 

繰り返しになりますが、この松浦と関わってくれ、応援やご支援くださった皆様、本当にありがとうございました!

 

これからもこの松浦とどうぞ仲良くしてやってください。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

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港区議会選挙のキャッチコピー「教育とつながりの街」に込めたおもい。

「教育は学校だけでやるものでもなく、家庭だけのものでもない。」

子どもの学びのフィールドは学校だけでなく、地域や社会へと広がっていると思っています。

そう考えると、地域コミュニティのリソースや実力、分厚さがそのまま「教育の質」へとつながるのではないかと思っています。

 

私は「教育」とは地域コミュニティという土台の上に載っかるものだと思っています。

コミュニティの人々のつながりや在りよう、関係性の深さなどが子ども達の学びの材料や可能性になるのだと思います。

 

つまりは、コミュニティのつながりが豊かであればあるほど「教育の質」も向上するのではないかと。

教職大学時代に北欧やオランダなどの教育を研究したことがありますが、教育がすごいということもありますが、何よりコミュニティが素晴らしいと感じました。

例えば、オランダでは家族の対話の時間や地域の人たちとのつながりをとても大切にしています。主観ですが、仕事よりも家族、地域とのつながりが優先順位が高いように思います。

 

かくいう、私も様々な「つながり」で生きてこれたようなところがあります。
たくさんの方々のご縁やつながりがあり、そのつながりから仕事をもらったり、助けてもらいながら生きてきました。

 

私はこの「つながり」を再生、太くし、しっかりとしたコミュニティを土台としながら、その上に載る「教育」をこの港区でつくっていきたいと思っています。

 

「教育とつながりの街 港区へ。」

どうぞ宜しくお願いいたします。

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困難を極めるチャレンジ・・「港区議会選挙2019」

今、まさに私が挑戦している「港区議会選挙」は、4年に一度、港区民一人ひとりの代表、代弁者を選ぶ選挙です。港区議会議員の定数は34人。今回立候補した人は、54人。実に20人の新人が候補者として立っています。

私はこの20人の新人の一人ということになるのですが、54人中34人受かるならなんとなくいけそうな気がする、となりそうですが、実際には今回は現職の引退者がいないので、新人が当選するためには現職の誰かより上にいかなければならないということになります。

34人の現職の方々は、1期で4年間、2期で8年間の港区での仕事の経験があります。港区民の税金でお給料をもらい、港区民のために仕事をしてきた、つながりを深めてきた経験が4年間以上あるわけです。地域の行事の卒業式や避難訓練などに参加すると現職が参列していることもの多く、名前や顔を売る機会がたくさんあるのも事実です。現職は選挙をしっかりと見据えているので、港区民とのネットワークづくりは常に意識して動いていることでしょう。

つまり、現職は強い、ということです。しっかりと当選ラインの港区民をおさえている現職が多い中で、新人と入れ替わる現職が何人いるのか?私はおそらく良くて2~3人なのではないか、と思っています。その少ない枠を20人の新人で取り合っているのが今回の選挙の構図だと私は見立てています。

もしも、現職の議員の入れ替わりが増えるのであれば、それは「投票率」が上がったときでしょう。投票率が低いと組織や地盤を持っている現職議員が有利です。一方、投票率があがれば、票数全体の数が増えることになるので、当選ラインの数があがり、相対的に組織票の強さは薄まっていきます。

私はこれまで選挙の準備も地盤もつくってきてないので、この投票率は非常に当選するために重要なポイントになります。

前回の港区議会選挙の投票率は、「34%」。23区の中で最下位というとても残念な状態です。世代の割合でみれば、年齢が高いほど投票にいき、若いほど投票に行かない現状があります。

 

↓選挙そのものについて私が考えたブログ記事はこちらから

「選挙」を考えて、民主主義を回復させよう - 松の盆栽

 

ということで、私の現在おかれている状況や情勢はとても厳しく、もともとわかってはいましたがとても難しいチェレンジです。

しかし、私には心強い仲間がたくさんいます。また、今年に入ってですが、一生懸命に朝と夜の駅立ち(駅頭)活動をし、地域をまわり課題などを聞いてきました。

なんとしても港区でお仕事をさせていただくために当選したいと思います。ぜひ港区につながりのある方は、お力をお貸しいただけると嬉しいです。心からお願いいたします。

以下は今回の港区議会選挙の候補者ポスターです。

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「選挙」を考えて、民主主義を回復させよう

「選挙」って何か、と考えてみると、自分の代弁者、代表する人を選ぶ、ということ。

社会の一員として、自分のありたい街や地域に向けて自分と共に、そのビジョンの方向性へと押し進める人です。

 

なぜ、そういう人(つまり議員)が必要かというと、例えば1000人~10000人が集まって地域のありたい方向性を話し合うのは現実的ではないからです。逆に言えば、100人くらいのなんとか全員で話し合えるレベルの人数の街であれば議員はいらないとも言えます。自分たちで話し合って、税金の使い道を決めればいいので。

 

この議論して選択、意思決定していくプロセスが「民主主義」なわけですが、それをしっかりと機能させていくためには、社会を構成する人々の多様性通りの代弁者が選ばれる必要があります。例えば、カラフルな色の社会でも議員としては赤い色の人ばかりになってしまえば、社会を構成する状態からは離れていると言えるわけです。

 

では、特定の色に偏らず、社会を構成している多様性を代表する人を選ぶにはどうしたらいいのか?

 

それは、みんなが選挙で投票することです。理想的には「投票率100%」。

現在はというと、高齢者の投票率が高く、若者の投票率が低いです。この状態ですと、高齢者の代表する人が多く選ばれますが、若者を代表する人は選ばれにくい状況です。そうなると、若者に対する政策や予算は少なくなる傾向になるので、とても勿体ないです。

 

港区では前回の港区議会選挙の投票率は34%。23区内で最低と残念な結果になっています。また、港区の予算1800億円を意思決定できる裁量と権限を持った港区長に関しては、投票率なんと24%です。区の行政の最高意思決定者である権力を持った人を選ぶのに24%の人だけの選択で決まっているのが現状です。これでは民主主義が機能しているとは言いがたいのではないでしょうか。(ちなみにスウェーデンは86%です)

 

ということで、私の目標の一つに「投票率をあげること」があります。とくに私が代弁したいのは「子育て世帯」。しかし、この子育て世帯のパパやママはなかなか政治や選挙に関心を持ってもらいにくい層でもあります。今、まさに政策を書いたビラを配布していますが、ママに話しかけても無視されたり、興味を持ってもらえないジレンマに苦しんでいます。(とはいえ、ベビーカーをひきながら小さな子どもを観ていたらそれどころでないのもわかります。)

 

今後、私のできる限りの発信や実行で、もっと子育て世帯を巻き込んでいきたいですし、啓蒙としても子ども達からの主権者教育に力を入れていきたいと思っています。

 

さて、港区議会選挙の投票日まであと4日。しっかりとおもいを届けて参ります。

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松浦貴昌が創りたい「つながり」の世界観とは?

政治活動での区政レポートなどの配布物では文章量が限られるため、求める世界観やおもいがあまり載せられません。ということで、ブログでそのあたりを書いていければと思います。

 

私の区政に挑戦するうえでのコピーが「教育とつながりの街」なんですが、なぜこのようなコピーになっているのかも伝えられたらと思います。

 

私の求める世界観、欲しい未来を短く表現するとこういう感じです。

 

「家庭環境や経済的な状況によらず、全ての人にチャンスがあり、自分らしく幸せに生きられる社会にしたい」

 

このことが土台にあり、私が「教育」とくには「公教育」に使命感を感じているのも、「家庭環境や経済的な状況によらず全ての子どもたちが自分らしく幸せに生きられるような教育を提供したい」という思いがあるからです。

 

このおもいがあるからこそ2009年に立ち上げたNPO法人ブラストビートは全てのプログラムを無償で提供し、財政的に厳しい子どもには交通費を団体から支給していました。プログラム費用がかかってしまうと、どうしても親の意思決定が必要になります。子ども達が自分で「やりたい」と思ったら参加できる環境をつくりたい、という思いがありました。

 

では、なぜそこにこだわっているか、というと、私が多様な人たちに囲まれ生きてきたということが大きいように思います。私自身は子育て世帯がたくさんいる公営住宅に住み、つながりの深い地域で育ちました。小学校から高校まで公立で過ごし、バンド活動をしつつアルバイトは30種類以上もしていたことから「人間は多様である」ということが肌に染みこんでいる気がします。そしてできた信念は、「その個々の多様性(凸凹)を活かし合う社会や組織が必要」「人間一人ひとりに優劣はない」ということです。

 

その「多様性を活かし合う社会」をつくるために必要なのが「つながり」です。そして、その世界観から引き離してしまうのが「分断」です。

 

そのことを一つ、家庭環境や経済的な状況を例にとってお話ししたいと思います。

 

家庭環境や経済的な状況は現状の社会では様々な面で強く固定化されたものとして出ています。「類は友の呼ぶ」とも言いますが、人間は同じような家庭環境や経済的な状況の人たちとコミュニティをつくりやすいのだと思います。それが悪いとは思いません。ただ結果的に交わることの少ない方々への想像力は働きにくくなるのだと思います。また、SNSはそれを加速する装置になっているとも思っています。

 

この社会が様々な人たちと共に生きているフィールドであるならば、想像力が働きにくくなると対立や問題が起こりやすくなります。米国の政治学者のロールズが「見えないベール」ということを言いましたが、共に世界をつくっていくために必要な想像力に、「もしかしたら私も明日はあの人のような困難を抱えるかもしれない。であるならば、あの人が生きやすい社会をつくることは、自分のためでもある」ということがあるのではないかと思います。

 

大切なことはそういった想像力を持って「つながり」をつくること。そして、その「つながり」からまた想像力を広げてさらに「つながり」を生み出すことだと思います。

 

また、多様な人との信頼関係に基づいた「つながり」があれば、人は安心感を得てこれまでよりもストレッチしたチャレンジをしていくことができます。そういったつながりを土台にしたチャレンジと学びを繰り返していくことで、より自分らしい幸せな生き方を生み出していけるのではないかと思っています。

 

そんな思いと共につくった1分の動画がありますのでご覧ください。


【1分動画】松浦 貴昌「教育とつながりの街、港区へ」

災害時のいざという時、自分の子どもは生きのびることができるだろうか?

地震や津波、火災や洪水などの災害時に、たとえ子どもが一人でいたとしても、自分で自分の命を守ることができるだろうか?また、命が守れるような教育を、家庭や学校でやれているのだろうか?

心理的にも負荷の強いこの問いは、2011年3月11日の東日本大震災を機に私が教訓としても考え続けているものです。

その考えるきっかけになった東日本大震災の2つの小学校の避難をめぐる出来事をご紹介したいと思います。(因みに私もこの問いは出来ているとは言えず、戒めも含めて書いています)

2つの学校とは、宮城県の大川小学校と岩手県の釜石小学校です。この2つの学校の大きな違いは、地震が起きた後の津波が迫る中で、子ども達や教師が取った行動の違いにあります。結果的にそれが明暗を分けることになり、大川小学校ではほとんどの子どもや教師が津波に流され亡くなったのに対して、釜石小学校では、ほとんどの人間が生き残りました。

具体的に何があったのか、短く書いていきます。

釜石小学校では地震があった後すぐに、副校長が「(避難所へ)走れ!」「点呼など取らなくていいから」と大声で叫び、子ども達も教師もバラバラに丘を駆け上がりました。また、その避難所の高さに津波が迫ったとき、中学生らが「上に登るんだ!」と声をあげ、さらに高台に逃げたおかげでほとんどの命が守られました。

一方の大川小学校では、地震の後、まず校庭に子ども達が集められ先生たちの相談が始まりました。その時、学校の正門にはスクールバスがいつでも出発できるように待機していて、学校の近くには裏山もありました。子どもの中には「山さ、逃げよう」という声がありましたが、聞き入れられることありませんでした。驚くことに大川小学校の危機管理マニュアルには、津波の避難先として学校周辺には存在しない場所がひな形のまま記載されていたことも後でわかっています。

結果、高台への避難の放送などがあったのにもかかわらず、選択できないままに約50分もの間、子ども達は校庭にとどまることになりました。そしてそこから突発的に橋のたもとの三角地帯に移動しようとした矢先に津波にのみ込まれ、74人の子ども達と10人の教師が大津波の犠牲になりました。生還できたのは、わずか子ども4人と教師1人だけです。

ここで私が思ったのは、もしも大川小学校の子どもや教師らが自らの頭で考え、行動できる人間であったなら、事態は変わってはいなかっただろうか、ということです。

そして、ここでさらに問いたいことは、家庭や学校の中で、ただ盲目的にマニュアル通りの行動をすればいい、という子ども達を思考停止にする教育をしてはいないだろうか。親や教師の言うことに疑問を挟まず、従順に聞くだけの受け身の子ども達を増やしてはいないだろうか、ということです。

この東日本大震災の出来事は、多くの命が伝えてくれた重要な教訓だと思っています。

今一度、「地震や津波、火災や洪水などの災害時に、例え子どもが一人でいたとしても、自分で自分の命を守ることができるだろうか?また、命が守れるような教育を、家庭や学校でやれているのだろうか?」

考えてみていただけると嬉しいです。

あと、一つご紹介したい情報があります。

まさにこの「いざという時、生きのびるこどもを増やす」というコンセプトの学びの場『2019東京 こども防災&イングリッシュキャンプ』が開催されます。

子ども達が主体的に楽しみ体験しながら幅広く防災を学び72時間「生きのびる力」を身につける機会です。外国人留学生のお兄さんお姉さんもたくさんサポートしてくれるみたいです。
対象は小学1~6年生(新1年生と中学1年生を含む)です。

ぜひこの機会に親子で上記問いを考えるきっかけにしてもらえたら嬉しいです。ではでは。

↓詳細はこちらから

kodomo-bousai.net

 

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2018年を含むこれまでの振り返りと未来への決断

2019年を迎えるにあたり、ひとつ決断をしたことを報告させてください。

これまで長年、NPO法人ブラストビートを筆頭とした子どもや若者対象のさまざまな教育プログラムに関わり、教育に関わる多くの先進的な現場や事例を学んできました。大学で学び小・中・高(社会)の教員免許も取得し、また、たくさんの自治体首長や行政職員、ソーシャルアントレプレナーの方々とお話しする中で、新しい教育と社会システムを実現するために、港区政に挑戦することを決心いたしました。

 以下、詳しく説明させていただきます(長いです。。)!

ブラストビートを筆頭に、教育への関りを深めて来たこと

今年2018年の私の大きなニュースとしては、3月の明星大学の卒業があると思います。2012年に一念発起して明星大学教育学部の通信に入学しました。元高卒のバンドマンだった私としては、これが人生初の大学生活のスタートでした。

入学後に結婚し二人の子に恵まれ、子育てと仕事(株式会社とNPO)、そして大学生活とバタバタと忙しく、しかし周りの方々のサポートのおかげでなんとか幸せな日々を送っておりました。本当に感謝です。

教職課程の大学だったので、教員免許を取るために小学校と中学校の約1ヶ月の教育実習や特別支援学校での実習、介護施設での就労体験などを経て、レポートと試験を繰り返し、卒業論文(2020年の教育改革の是非)をギリギリで書き上げて卒業できたのが今年2018年でした。実に6年間かかりましたが、170単位ほど取得し教員免許を、小学校、中学・高校(社会)と取得することができました。

教員免許を取得しようと思ったきっかけは、2009年からNPO法人ブラストビートを立ち上げ、「チャレンジする10代を増やす」というミッションのもとに、アントレプレナーシップを育成する音楽を使った教育プログラムを提供してきたことがあります。

このプログラムは、高校生や大学生が一つの会社をつくり、音楽イベントを自分たちの力でプロデュースし、利益の一部を寄付することを、100日間でやり遂げるプログラムです。また、それを支えるのは社会人や経験者OBOGのメンターです。「先生」という立場ではなく、社会に出た「先輩」だからこその伝えられる学びがあるだろうとこの制度をつくりました。

「多様なつながりから人は多くのことを学ぶ」そんなことを確信に変えてくれる日々でした。

ブラストビートを運営する中で、「チャレンジする子ども達を増やすために学校に入っていきたい」と強く思うようになりました。ブラストビートのような一見障壁の高そうなチャレンジにもバンバン飛び込んでくる若者を増やしたかったのです。

そこで大学に入学し教職課程に行きつつ、2013年からNPO活動として、本格的に中学校や高校(公立中心)に「キャリア教育」という文脈で授業を提供し始めました。内容としては、様々なキャリアや人生を経験している「生きる力」を持った社会人に、子ども達と出会ってもらい、そのリアルな体験や経験を伝えてもらう、ということです。

現在で増えてきているパラレルキャリアの人や、紆余曲折あったけど現在はイキイキと楽しそうに仕事をしている人など様々な社会人と、時にはビジネスアイデアをプレゼンするという実践的なプロジェクト学習(PBL)も提供しました。

結果的に子ども達から、「仕事が楽しいものだと初めて知った」「早く社会に出てチャレンジしてみたい」などのコメントをもらい、とてもたくさんの変化が生まれました。

また私の中で、「学校が開かれて、多様な人たちが学校に入り子ども達と出会っていけば、より豊かな変化と学びが生まれる」と確信していきました。

そして私の意識は、NPOと教職課程の経験から「学校教育」や「家庭教育」などのテーマに自然と移っていきました。大学生活の中でも教員免許を取得したら「初等教育に関わりたい」という思いも強くしていきました。

 

教育実習で個々の教員を超えた「システムの問題」が大きいと知る

そして転機は訪れます。教育実習で港区の小学校で教育実習を経験しました。

この教育実習は私にとってとても辛く、しかし学びの多いものになりました。教育実習から2週間くらい経ったころには、朝、心臓が締め付けられるように痛くなってしまうほどでした。しかし、自分なりにできることを精一杯頑張ろうと自分なりに子ども達とも向き合いました。

私の至らなさ故のことですが、最初から最後まで試練の時となりました。ただ救われるのは子ども達とはとてもいい学びの思い出ばかりです。

この教育実習であったことは、誤解があるといけないので詳しくは伏せておきたいと思います。ただ、こういった経験の中で私は、行政も含めたシステム全体としての問題へ意識を向けていくようになりました。

少し書いておくと、教職大学から教員採用の流れ、教員の研修や異動、キャリアステップと管理職のなり手、そして退職後の教職大学への関わり。そういったシステムが周り続けていること。また、学校と教育委員会、文科省や議会との構造や行財政の仕組み、といろいろと見えてくるものがありました。

その中で一つ気づいたことは、ニュースではいろいろ言われるところもありますが、実際に出会ってみると学校もその他の機関でも、一人ひとり見れば素晴らしい人がほとんどなのです。ただ、システムや構造の問題がより良くすることへの足かせや逆効果に働いているのではないかと思うようになりました。

 

いろいろ調べ、自治体首長、社会起業家の方々と話す中で新しい教育を実現すべく区政への挑戦を決意

私は教育のシステムや構造、教育委員会や文科省などの教育行財政や教育政策などにも興味を持つようになり、
益々「教育」や「学校」というものを探究することになりました。そして、NPO法人ブラストビートの理事としては残りつつ、現場を離れました。信頼できる仲間たちにバトンを渡したのでした。

2018年3月には晴れて大学を卒業し教員免許を取得。入学当初にイメージしていた教員にはならなかったですが、子育ても同時並行だったこともあり、学びはとても大きく充実したものになりました。
2018年4月から教育政策や政治の世界なども勉強を始めようと思い、日本大学 法学部 政治経済学科(通信)の3年次編入をしました。

また、時を同じくして、「コクリ」というプログラムを経験し、たくさんの地方自治体の首長や行政職員、ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)の方々とお話しする機会を経て、新しい教育システムや新しい学校ができるのではないかと希望を持つようになっていきました。

調べてみると、公設民営の学校として、新しい学校や新しい学童がつくられ、実績を上げている事例も出てきています。(税金で学校をつくり運営を民間に委託する方式です)

そして、私が長年もっていた確信である「多様なつながり」からの教育も、「コミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)」というかたちで徐々に広がってきています。

このような中、新しい教育システムや新しい学校を作るために、行政に関わるという選択肢が見えてきました。行政区は今、住んでいて私の子どもたちの地元となる港区です。
私の人生の、バンドマンで多様な人たちに出会った経験と、株式会社の経営者としてのビジネスや人材育成の経験、教育NPOでのつながりでの教育の経験、教職課程での経験、それ以外でも数々の経験を活かし、いろいろな人たちと話す中で育てて来たビジョンを、これまで出会ってきた人、これから出会う人とさらに豊かなものに育て、実現するべく、港区政に挑戦することにしました。

 

「教育を軸につながり合える街」を港区で実現したい

今後、挑戦していきたいとことを一言でいうなら、「教育や子ども達を中心としてつながり合える街にしていきたい」ということです。区政は生活に密着した部分になるので、政策についても具体的なものになっていきますが、今回はその中でも少し触れておく程度にしておきます。

教育については前述した「コミュニティスクール」や公設民営の新しい学校や学童についても推進したいと思っています。以下にはそれ以外の街や地域というところポイントに書いておきます。

私自身が生まれ育った街は、本当に地域のつながりが強いところでした。公営住宅に住んでいたのですが、ご近所さんは鍵がかかっておらず、ふらっと行ってはご飯を食べさせてもらったり、地域のおじさんから生き物のことを教わったりしたものです。そういった経験が地域への恩返しや恩送りへの気持ちになっています。

一方で港区は町会が消えていっています。私のマンションでも区役所に町会を問い合わせたところ、「松浦さんのところに町会はありません」と言われてしまいました。

「地域」を意識し出したのには、子育ての経験があったから、ということもあります。子どもが急に熱を出したり、何かトラブルになったり、大きな地震があったときなど、子どもや家族を守るには住んでいる地域の単位がとても重要だと思いました。

そんなこともあり、今年2018年に「上級救命講習」を受け、乳幼児を含めた心肺蘇生やAEDの使い方なども学び、もしもの時に備えました。(丸一日の講義でおすすめです)

あと、港区は多様性に溢れています。企業も多く、平日昼間の人口は3倍になります。また、大使館や領事館も多く外国の方も多く住んでいます。そして、歴史的な建物やお寺も多く伝統文化も豊か。それらのリソースを学校で活かせば、素晴らしい教育や授業が実現するはずです。そして、地域や社会人が学校の中で担う役割や範囲を増やせば、先生が使える時間も増やせると思うのです。今の状況では新たなやることばかり増えてきて、あまりにも忙しすぎます。

 

ここで、私が尊敬する元ウルグアイの大統領のホセ・ムヒカ(ペペ)の言葉を引用します。

「人生で最も重要なことは、勝つことではありません。最も重要なのは、"歩み続ける"こと。これはどういうことなのか。それは、何度転んでも起き上がること。打ち負かされても、もう一度やり直す勇気を持つことです。」

 

思えば、私の人生も失敗と困難の連続でした。そしてまた、困難がたくさんありそうです。でも、諦めない。歩みを止めない。それだけを胸に、多くの人の学びと幸せに貢献できるよう、あと20年~30年は走り続けたいと思っています。

今、息子を二人(3歳と1歳)港区で育てています。

まず彼らの生きる社会や地域をより良くしていき、また父親や地域の大人としてのチャレンジする背中を子ども達に見せていきたいと思っています。

まだまだ未熟なところが多々ありますが、応援をどうぞ宜しくお願いいたします。

 

松浦貴昌

 

 

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